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努力とは違うベクトル

人間は努力をする限り迷うものだ。

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ

最近は、「努力」という言葉の定義とは遠い暮らしをしていると自覚している。
辞書によると、「力をこめて事をすること。あることを成し遂げるために、休んだり怠けたりすることなく、つとめ励むこと。また、それに用いる力。」

むしろ、力を抜くことを意識しているという感じかもしれない。強制的な圧を自身にかけず、無理をせずに、流れに身を任せて興味の赴くままに行動できるようにと思っている。

もちろん、仕事に関しては、自分の都合だけでは動けないので、求められることを自分なりに判断して、迅速に正確にレスポンスできるようにとは思っている。フリーランスの在宅ワークなので、仕事量に波がある部分もある。それでも、与えられる業務に関しては、好き嫌いのジャッジをせずに、できるから依頼されているのだろう、今取り組む必要があることなのだろう、とコストパフォーマンスを考えないように、できるだけ自身の価値基準を入れないように、近頃は、ある意味受け身の姿勢で取り組んでいるように思う。仕事に対しても「努力」という認識はないので、あまり迷いもない。

仕事以外の時間に関しては、今やりたい事や知りたい事にできるだけ正直に敏感に時間を使いたいと思っている。たまたま知った人物だったり事象だったり、興味を持って掘り下げていく中で、書籍や記事を読んだり動画を見たり、どんどん興味が広がりあっという間に時間が過ぎてしまう。もちろん、そこに迷いは一切ない。

ずっと以前、学生の頃や社会人になってからでも、「努力が足りない」と言われたり、自分自身でもそう思っていた時代もあった。何を持ってして、足りるというのかわからないし、何を成し遂げるというのか、どこに向かえば良いのか、漠然と未来に向かって「力をこめて事をする」としても、むしろ「迷い」が生まれてしまうような気がする。

「努力」という言葉、そのように行動することは、ある意味で美徳なのかもしれない。ただ、個人的な経験値では、「努力」というのは、負荷をかけたり、我慢を伴うような印象がある。外的要因の場合は「努力」が必要なこともあるのかもしれないけれど、内的要因での行動には「努力」という言葉は適切ではないような気がしている。たとえ、傍目には「力をこめて事をする」ように見えても、内的要因からの場合は、自分自身は好きでやっていたり、夢中でやっていたりと、負担には感じていなのではないだろうか。それがスキルになったり、仕事になったりすることもあるのかもしれないし、結果的には、何かを成し遂げていることもあるだろう。

「力をこめて事」をせず、気持ちや興味の赴くままに、今日も貴重な一日を気分良く過ごせた奇跡に感謝を込めて。

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